←TOPイメージ 現在のところ "最新鋭機" エアバスA380の主翼とエンジン

 



 

 

 

街中を縦横に往き来。 自動車、バスなど(3)

 ホテルの送迎リムジンから路線バスまで。 はたまた絶版になった珍品カーまで。 出くわした車にカメラを向けました。


ジープニー (フィリッピン・マニラ)
こういうのりものに、私は目がない。 マニラの名物といっていいだろうと思います。 ジープニーです。 19世紀の末、米西戦争の結果として宗主国がスペインから米国に変わったフィリッピン。 太平洋戦争後、その米国が去った時に置いていったジープを改造して乗り合いタクシーにしたのが始まりだと聞いています。  フィリッピンの国民性には興味深い二面性があると思います。  それは二つの宗主国による相反する価値観の同居といえるでしょう。  ひとつはスペインの影響。 マゼラン上陸にはじまり、米西戦争までの350年にわたるスペイン統治によって、フィリッピンには敬虔な信仰が植えつけられた。 ローマカトリックの熱心な信者が大半のお国柄です。 家族を大切にする、離婚しない。 避妊しないし、中絶しない。 その他カトリックの伝統行事はちきんと実行しています。 じつに慎ましい価値観です。 フィリッピン家庭の子沢山の理由はここにあります。  もうひとつ、米国の影響。 その後の支配者である米国は、フィリッピンに教育を残したと言われています。特に初等、中等教育です。 現在なお途上国の仲間にあるフィリッピンですが、教育の普及は日本とかわりません。 大学などの高等教育への就学率も日本と遜色がない。 米国は小中学校の整備には力をいれたといいます。 特に中学校からは授業を英語で行う形式をとりました。 現在でもそうだといいます。 だからフィリッピン人はアジアでもっとも英語力のある国民として知られているそうです。  一方、米国は自由な行動様式も持ち込んできました。 恋愛感などがそうです。 どんどん新しい恋をする。  といってもカトリックの教えで離婚でませんから、おめかけさんにする。 その一方で家族も大切にする。 平気で妻子もちに彼女を紹介するので、呆気にとられます。  コソ泥が多いなどの治安の悪さも、罪の意識が希薄であっけらかんとしている傾向があります。    ジープニーに乗車してもこの二面性を垣間見ることができました。 運転席の真上、ちょうどルームミラーのあるあたりに、聖母マリアの肖像やキリストのミニチュア像がつけてあって、電飾で飾ったりしています。 毎日交通安全をお祈りするのでしょう。 聖書のありがたい言葉が天井に書いてあったりします。 その一方で、おつりをごまかしたりもします。 お客の忘れ物をネコババするようなこともあるやに聞きました。 大して罪のない軽犯罪ですが、いい加減な面も同居しているのです。 そうしたことを互いが赦しあう、おおらかさというものも感じられて、不快な気分にはなりません。 不思議なことです。 そんな二面性をのせて颯爽とはしる米軍の忘れ物でした。

 


搭乗バス(中国・広州)
3年ぶりに見た中国躍進の兆候 写真は古いです。1987年の撮影ですから。 広東省広州の白雲機場に到着した直後に、ターミナルまで私たちを運んできたバスに感心して撮ったものです。  じつはこの3年まえにこの飛行場を利用しています。 写真とほぼ同じ角度からターミナルを撮影しています。 古いぼろぼろの建物でした。 しかもこれから乗り込む飛行機の足元まで歩いたのです。  この写真は、北京から到着したときのものですが、タラップを降りるとこのバスが横付けされていました。 ドイツ製なのかオランダ製なのか、、、、。 大型で新車の匂いが残る近代的な道具といえるでしょう。  そして降りた先のターミナルもすっかり近代的にリニューアルが済んでいます。 その後市内に向かうタクシーの道順から、ここが間違いなく3年前に乗り降りしたおんぼろ飛行場であることが確認できた次第です。 管制塔は昔のままでしたから、完全に建て替えたわけではないようです。  今考えてみますと、このとき1987年は、まだ中国が改革開放に政策シフトする前のはずです。 中国を現在のような改革開放路線に向かわせたきっかけは、南順講話からです。 南巡講話(なんじゅんこうわ)とは、小平が1992年1月から2月に かけて武漢、深セン、珠海、上海などを視察し、重要な声明を発表した。 外資を積極的に導入し、市場を開放、経済体制においては社会主義統制経済の体制を事実上放棄するという、画期的な内容だったのです。  この写真は、その5年も前のちょっとした変化を捉えた写真ということもできるのではないかと思います。  現在の広州市では地下鉄が建設され、このころとはまったく別の街に変貌を遂げていると聞きます。 空港だって別の場所に整備されているかもしれません。 経済活動の分野では全国の一歩も二歩も先を走っていた商都広州。 先んじて様々な行動があった時期だったかもしれない。 そんな変化の兆しを発見できた一枚ともいえそうです。

 


国民車・トラバント (ドイツ・ベルリン)
クラッシックカーとも違うんです。 この古風なデザインの小型車、ボディーが紙で出来ています。 旧・東ドイツのトラバントという車です。  ベルリンの街角でよく見かけました。 奥にほぼ同じサイズの西ドイツ車、フォルクスワーゲンが写っています。 同じドイツの人々が作った車ですが、社会体制の違いがここまで差をつけてしまったことを雄弁に物語っています。  私には実体験がありませんが、終戦直後の物資困窮の時代に無理して作った懐かしい車。 多くの人が、「あんな車が走っていたなあ」 などと懐かしみそうな姿です。 しかしこれが東西ドイツが統一する直前まで現役で作られ続けていた現代の車種なのです。 これならロシアの国民車・ジグリのほうがよほどまともです。  旧・西ベルリンの中心駅であるツォー駅と東側の駅舎との差もすさまじかった。  かたや最近出来たばかりの私鉄ターミナルのように近代的で機能的な駅舎かと思えば、すすけて壁の一部が崩れ落ちたままのオンボロ駅舎。  走るSバーンの電車も骨董品同然のものがモダンな新造車両と交互にやってきます。  このようなタイムトリップしたかのような落差を、このころ(1991年)、ベルリンの街のいたるところで発見できました。 

 

 

 

TOP

 

Copyright 2006 TTWWTP/www.oiina.com/ All Rights Reserved